ホーム > 創立50周年特設ページ > 半世紀を振り返る(50周年記念座談会)

50周年記念座談会

半世紀を
振り返る

日時 平成30年9月27日(木)
会場 石川県建設総合センター 2階

出席者(順不同)
奥田 外世雄
元協会会長
伊井 嘉信
元協会副会長(協会顧問)
平櫻 保
元協会会長(協会常任顧問) 
みづほ工業(株)会長
北川 義信
元協会常任理事 
北川ヒューテック(株)会長
明翫 章宏
元協会副会長(協会顧問) 
(株)明翫組会長
小柳 正彦
元協会副会長(協会顧問) 
日本海建設(株)会長
橋本 和雄
協会会長 
兼六建設(株)社長
司会
岡 昌弘
協会副会長 
(株)岡組社長

※肩書き・役職などは座談会開催時のものです

【岡】本日、諸先輩の皆様方にはお忙しい中、金沢建設業協会 座談会「半世紀を振り返る」にご出席を賜り、誠にありがとうございます。出席の皆さまの企業のあゆみ、協会の思い出などを振り返りながら自己紹介をお願いできればと存じます。初めに、元協会会長であります、奥田外世雄さんからお願いいたします。

創立時、90数社でスタート

奥田外世雄

奥田外世雄
元協会会長

伊井嘉信

伊井 嘉信
元協会副会長(現顧問)

【奥田】私は昭和44年に金沢建設業協会が創立した時のメンバーで、当初の会員数は90数社でした。現在の会員数は100社を割っていると聞きました。50年たってまた元に戻ったような気がしますが、その間の大変厳しい時代を堅実に乗り越えて来られた現在の会員ならびに役員の皆様のおかげで今日があるのだと思います。やはりしっかりと「本業」に専念してきた企業こそが、何十年に一度の波を乗り越えられるのだと経験上感じております。

【伊井】北都組は昭和9年7月に初代社長の杉原杉善が当時の白峰村桑島で創業し、昭和19年7月本社を金沢市に移転し、株式会社北都組を設立しました。2代目社長は杉原亀十郎、3代目が私、4代目が現在の竹腰勇ノ介です。おかげさまで創業84年を迎えまして、何とか100年企業の仲間入りをできればと思っております。
 協会では総務委員長時代に、会費の見直しや、奉仕委員会の新設、そして役員の定年制の導入など、協会改革の一環として提言しました。特に定年制の導入では、翌年の改選時に70歳を超えられます方に、兼六建設の勝田さん、島屋建設の島さん、加州建設の山岸さんの3人がおられましたが、皆様に快く同意していただいたことが今でも深く心に残っています。
 苦い思い出としては、平成9年9月に公正取引委員会の立入検査を受け、独禁法違反で金沢の建設業者141社が摘発されたことです。当時の新聞やテレビを大いに賑わせ、金沢建設業協会の信用を著しく傷つけた、とても残念な出来事でした。

【北川】北川ヒューテックは、先代の父が27歳、昭和2年に下伝馬町で「北川商店」を創業したことに端を発します。昭和11年に「北川アスファルト工業所」を設立、建材販売や防水・アスファルト工事を手がけ始めました。昭和22年に「北川工業株式会社」を設立、法人化し、昭和24年に新三菱重工業と代理店契約を結び、冷凍・冷蔵関係工事を本格化させます。これが菱機工業の前身です。その後、道路、アスファルト防水、冷凍機械の3本柱となる事業部門を確立し、冷凍機械部門は菱機工業、アスファルト防水は北川瀝青工業に分離独立して、北川工業は道路建設事業を担う会社として残りました。私の長兄の北川正信が昭和43年に2代目社長を継ぎ、後に金沢建設業協会の協会長に就任しました。昭和47年には、道路建設業の専業社として全国大手を目指し、社名を「北川道路株式会社」に改称します。私が平成元年に社長に就任して以来、道路建設専門業者では将来性にとぼしいと考え、平成3年に社内に建築事業部を発足させまして、社名を「北川ヒューテック」に変更して現在に至ります。

【岡】協会の思い出はどうですか。

舗装業者として舗装部会を要望

平櫻保

平櫻 保
元協会会長
(現常任顧問) 
みづほ工業(株)会長

【北川】当時、協会には土木、建築の部会があって、舗装業者が集まる組織はありませんでした。舗装業者の協会員は15社だけでしたが、各々の売上は大きかったので、業界が協会に収める会費のウエイトは2割ほどで低くはありませんでした。これだけ協会に貢献している業界がなぜ部会をつくれないのかと訴えたところ、当時の専務が第一段階として舗装委員会をつくるから容赦してほしいということで、こちらも矛を収めて、業界として従来どおり協会に協力しますとなったエピソードがあります。

【平櫻】そんな話は初めて聞きました。

【北川】県レベルでは石川県の舗装協会があったので、金沢の業者だけで金沢の協会の中に舗装部会をつくりたいという意見があったのです。協会として金沢市に要望を出す際に、やはり土木と建築が主体で、舗装が陰に隠れていました。入札契約制度も違うし、指名の対象も違うから、土木とは分けて部会をつくれないかという要望でしたが、反対した方もいたようです。

【伊井】協会設立以来、建築・土木はいつも一緒でしたが、当時は舗装の皆様とは、多少隔たりがあったと思います。

【奥田】工事の場は増えていましたが、どうしても舗装業者の数は少なかったですからね。今では20社くらいになったけれど。

【岡】元協会長、平櫻さんお願いいたします。

【平櫻】みづほ工業の歴史で残っている記録は、昭和14年9月に法人設立だけで、それ以前の創業などについては資料が全くありません。私で社長は3代目でした。以前は土木も行っていたらしいのですが、ある時期に金沢市からの土木と建築の発注が分離されるようになり、以来、本業の建築一本を貫いてきました。しかし記録をみると、泉野の区画整理など、土木工事の実績が結構残っています。今思えば、3社を除き、他のものはどちらかに業種を絞らなければならなかったようです。

【奥田】あの時分は建築と土木の専業社を明確に区別し、いろいろなすみ分けがされた時代でした。

協会設立が遅かった金沢

【平櫻】ところで先日、羽咋の協会長の小倉さんに、金沢が50周年を迎える話をしたら、羽咋はもうとうの昔に50周年を済ませたと言っていました。

【奥田】金沢建設業協会は地区としては一番設立が遅かったのです。県の協会が先にあり、その中心メンバーは金沢の業者ということもあって、金沢地区の協会をあえてつくらなかったからです。ところが他の地区ごとに協会がつくられはじめ、金沢は最後に協会をつくることになりました。

【明翫】明翫組は昨年創業100周年を迎えました。創業は大正6年、私の祖父が初めは土木建築の請負、砕石の生産販売を始めました。私は4代目の社長で、2年半前の平成28年の4月に、私の長男に社長を交代しました。
 協会の方では、40歳の頃に役員になりまして、その間、土木部会長、総務委員長、副会長などいろいろな経験をしました。その時どきで大変苦労をしたこともありました。やはり、入札契約制度の変更や公取の問題もありましたし、また組合の設立など苦労したこともありましたが、今にして思えば、部会や役員会の旅行などの楽しい思い出ばかりです。

良き時代の海外旅行と選挙

【小柳】日本海建設は、私の父が昭和25年7月に、3人の兄弟たちとともに立ち上げた会社です。3番目の兄弟、私の叔父は金沢工専(現在の金沢大学工学部)出身で大阪の現在の東洋建設で修行をしました。ちょうど戦後の復興期で、これからは港湾施設の時代が来ることを先読みし、しゅんせつ船を1隻購入して、金沢港の港湾工事や河北潟の干拓など、主に水関係の工事事業から成長してきた会社です。その後は手広く陸上工事の方も施工させていただくことになり現在に至ります。現在は港湾での仕事は全体の3割ほどです。私は、平成8年に叔父から社長を引き継ぎ3代目となり、協会には長らくお世話になってきました。
 協会の思い出としましては、公共事業が盛んな時代でしたので、皆さんと海外旅行にも何年か続けて行ったことが記憶に残っています。また私が協会に入りました頃は、奥田敬和さんがまだ活躍している時代でしたので、政治的な関わり、選挙ばかりをしていた記憶があります。当時は、いわゆる「森奥戦争」の最中で、激しい政争の時代でもありました。その後、谷本知事の選挙もございました。この間、昔の仲間に会いましたら、「選挙ばかりやっていたな」と話していましたので、選挙の思い出は皆に残っていると感じました。

【橋本】贅沢な海外旅行でした。みんなファーストクラスで、1回で10日、2週間ほどの日程だったのではなかったですか。

【奥田】2年に1回行こうと、平成4年からで、最後は平成16年だったはずです。

【小柳】本当に公共事業に恵まれた時代でした。会社の施工高の推移を見ておりましたら、平成9年度から11年度にかけて約60億円、社員が78名おりました。それが現在は、年間平均すると15億円前後ですので、4分の1くらいに減少しています。

移り変わる利益率

【小柳】あの頃、建築屋さんは「土木はいいなぁ」と言っていましたが、最近は逆転したようで建築屋さんが羨ましがられる時代になってきたなと感じます。

【奥田】利益率が違ったからね。

【橋本】ほぼ倍になった。

【小柳】そういう話はよく聞きました。最近は立場逆転で、制度もかわったこともあり、土木は大変厳しいという状況です。

【橋本】現在金沢建設業協会の協会長をさせていただいております、兼六建設の橋本です。奥田さんからお話があったように、協会設立時の協会員数は約90社、ピーク時で160社から170社近い協会員を数えたこともあったのですが、現在は88社と創立時に戻った感があります。そのような中で先輩方のそれまでの努力により多くの財源を残して下さったおかげで、会員数が極端に減った現在でも協会の運営が賄えていることも事実です。
 小柳さんからもお話があったように、相対的に協会員のトータル売上もバブル期のピーク時に比べて、全体の3分の1にまで減少していますので、当然協会の会費収入も減っている現状です。そうした中で、協会運営を持続してこられたのは、かつて協会運営に携わってこられた先輩方の「知恵」のおかげであったと感じています。
 われわれの時代、設立時から今日まではバブル期を経験し、公共工事がふんだんにあって、良い時代ではありましたが、今はわれわれの次の世代のことを考えねばなりません。ここ10年ほどかけてどの会社でも代替わりが進みましたが、これから先の世代がこの業界を導いていく時の指針になるような記念誌を、過去50年の歴史を振り返りながらつくっていきたいという思いから、今回企画をさせていただきました。

【岡】会社の紹介もお願いします。

【橋本】私は現在、兼六建設の代表を務めております。当社もやはり土木も兼ねて建築の会社として昭和26年6月に創設しました。再来年でちょうど70周年を迎えます。私で4代目の社長になりますが、初代は県会議員をしていました藤垣佶さんという松任の方で、当時社会党から出馬しました。その時の選挙参謀をしていたのが私の父でした。これからの時代はやはり土建、建設業だろうということで会社を立ち上げました。藤垣さんも私の父も全く建築とは縁遠い2人でした。そこで、2代目の協会長を務めた勝田誠一が当時の田村組の建築課長をしており、人を介して勝田さんを会社に招いて会社を設立しました。2代目社長は私の父橋本外喜雄、3代目の勝田さんが亡くなられて、平成2年に私が4代目の社長に就きました。

【岡】第1次、第2次オイルショック、バブル崩壊による平成不況の到来、そしてリーマンショックによる金融危機と、50年の間に景気の荒波が何度も押し寄せてまいりましたが、それらを乗り越えた方策や教訓、また当時の協会の対応策などについてご発言をお願いしたいと思います。

不景気と建設業界の関係は?

北川義信

北川 義信
元協会常任理事 
北川ヒューテック(株)会長

明翫章宏

明翫 章宏
元協会副会長
(現顧問) 
(株)明翫組会長

【北川】第1、2次オイルショック、バブル崩壊、リーマンショックについて、弊社の過去の記録を遡って調べてみましたが、1次オイルショックの時だけが大きな痛手を被ったようで、他はほとんど影響がありませんでした。昭和48年10月に始まった第4次中東戦争を契機とした第1次オイルショックにより原油価格が高騰、総需要抑制策により公共事業が凍結・縮小された背景があります。
 オイルショック以前の昭和48年の売上高は51.6億円、8月に資本金を1億から2億に増資しておりますが、これはオイルショックとは関係のない増資だったと言えます。その翌年オイルショック後の売上は65億と順調に伸び、結果的に8月に5千万の増資をして乗り切りました。これはオイルショックによる建設業界への現実的な影響を憂慮していなかったと言えます。その頃、政府もいろいろな施策を打ち出し始めますが、わが社としては経営体制強化に乗り出しました。徹底的な経費節減、経営の効率化と管理システムの向上を図る電算機の導入、全社全てコンピューター化をしました。また、幹部の人事異動、現場管理者講習会や幹部研修会を行い、全社的な意識改革を実施しました。
 昭和50年には売上が80億を超え、1.8億の利益を出し、資本金を3億にまで増資しました。オイルショックの前後で、一気に1億から3億まで増資されたことになります。

【橋本】その時分、昭和50年前後と言えば、オイルショックとは別に、田中角栄さんの日本列島改造論による施策が進められた時期でもあったからではないですか? 日本列島改造論の音頭のもとに、当時は地方に向けて高速道路建設や道路整備が推し進められた時代でもありました。北川道路さんもその波に乗っていたのではないかと思います。

【北川】私はタイムラグがあったのだと考えています。オイルショック後に打ち出された需要抑制策による公共事業削減の実際の効果が現れる以前の余波があったのだと思います。昭和50年に80億の売上、1.8億の利益を出した翌年に、売上は66億まで減少し、利益は1,700万へと落ち込みをみせます。ただ、その後を振り返っても、世界的な数々の不景気の波は、ほとんど建設業界に影響はなかったのではないかというのが私の見解です。

【伊井】北都組は昭和36年頃には、既に経営は悪化し自転車操業に陥っていました。昭和40年代に入っても経営の悪化に歯止めがきかず、倒産の危機に瀕する窮状を打開しようと昭和46年に本家にあたる杉原亀十郎さんが社長に就任し、何とか倒産を免れる事ができました。
 その頃、幸いなことに、昭和45年から「手取川ダム開発」による電源開発事業が始まりました。また、国道157線のトンネル工事もあり、なんとか危機を乗り越えることができました。私が社長に就任したのは昭和62年の3月で、バブル崩壊直後は大変厳しい状況ではありましたが、その後の政府の景気対策により公共工事の受注が大幅に増加したおかげで会社の経営を安定させることができました。
 しかしながら、リーマンショック後も建設投資額は更に激減し、入札制度の改定等もあり、過当競争による落札率の低下によって苦しい経営を強いられて現在に至っています。
 当時の協会も、国・県・市に対して公共工事の予算確保と適正な設計・積算等を陳情してきました。そのかわりというわけではありませんが、首長選挙や国政選挙の折には、協会を挙げて取り組んでまいりました。ですから、皆様が協会活動を振り返ると「選挙、選挙」と思い出されるのではないでしょうか。

【奥田】昭和44年に私の兄が治山社の社長になり、その年、初めて衆議院に出馬して建設業界の選対の皆さんに後援会をつくっていただいて活動できたことがあります。それ以後、皆さんには30年近くずいぶんとお世話になりっぱなしでした。
 テーマの「不景気を乗り越えた教訓」についてですが、オイルショックやバブルなどと建設業界はあまり関係なく、右肩上がりで成長を続けてきたと思います。一番の打撃は、治山社が倒産したから言うのではありませんが、独占禁止法の改正であったと思います。あの時を境に、建設業界だけではなく、繊維・鉄鋼業界においても不穏な雰囲気が漂い始めました。あれから大手の企業は全て協会を脱会したでしょう。談合の禁止はもちろん、課徴金の制裁がものすごく厳しくなりました。そして、民主党の「コンクリートから人へ」のスローガンで公共事業は50%減少しました。
 生意気なことを言うようですが、あの当時、皆さん本業では頑張っておいでだったと思います。独禁法の改正により公共事業が半減して、叩き合いが始まりました。大手さんも含めて、7割や6割という受注合戦により、全国的に大きな会社が数多く倒産しました。大手の場合は民事再生などによって乗り切ったところもありました。そんな時代的な区切りがあって、今があるわけなのです。今はまだ安定期と言えるでしょうが、これから先また工事が必ず減る時期があると思います。皆さんは健全な経営を続けてこられた会社ばかりなので大丈夫かと思いますが、これまでのことを教訓にして、次の時代の区切りを見定めていくことはやはり必要だと思います。

【橋本】小泉内閣、民主党の「コンクリートから人へ」。あの辺りでわれわれ業界がとどめを刺されたと言えます。奥田さんがお話したように、オイルショックやバブルの崩壊などは、われわれのような地方の業界にはほとんど影響がなかったと思います。

【明翫】世の中一般の不況・不景気とわれわれの業界とでは意味が少し違いますね。

【小柳】私もそう思います。われわれにとっては影響がなかったような気がしました。

金融庁の指導と地銀の対応

世界的な金融危機の影響により地場建設企業の破綻が相次ぐ中、県建設業協会と県建設産業連合会は、公共事業の拡大などを求め「建設産業危機突破大会」を開催(平成20年12月8日、建設総合センター)

【橋本】リーマンショックでわれわれの業界が大きな痛手を受けたのは、金融庁の指導が地方銀行に入ったことでした。要はわれわれ建設業界の売上に対して、余剰金は一切貸してはいけないという命を金融庁が、地方金融機関に出したのです。建設業界では、貸付枠という中で企業を営んでいた場合がほとんどだったはずで、例えば北川ヒューテックさんなら売上が150億あるので、メインバンクから100億までいつでも貸しますよ、日本海建設さんなら30億まで、当社なら10億まで、といったことが常態化していました。
それがリーマンショック以降は、今どんな仕事を持っているか、その仕事に対しての支払以上の額は貸付けできませんよ、という締め付けが一度にやって来ました。自己資本比率の余裕のある企業は別として、地方の企業のほとんどが貸付け枠を利用しながら自転車操業的に経営していた中で、金融機関が急に門戸を閉ざしてしまったわけです。
 当時、地元の倒産企業でも仕事の量は相当持っていました。ただし、その仕事の先が問題となりました。土木の皆さんは公共事業が8割から9割で発注者は自治体なので、回収ができないことは考えにくい。しかし建築業は民間の売上が7割から8割、公共工事が特に減っていた時代だったので、その民間の施主がどういう人なのか金融機関から審査が入り、「その施主の金融機関はウチがメインではないので、その仕事に関する融資は施主のメインバンクから融資してもらって下さい」といったその場しのぎの言い逃れを平然と言われてしまう時代になりました。
 それで、建設業の中でも建築を生業としていた地元大手の企業がバタバタと倒産してしまったのです。倒産した会社の手持ち工事を見ると、皆5億、10億の仕事は持っていました。それが金融庁の金融機関に対する締め付けにより、資金を回転させることができなくなったのが諸悪の根源だったのです。

【北川】手元の工事をどれだけ持っているかで貸付を決める、公共事業の場合は取り損ねることがないからほとんど融資が認められる。しかし民間の建築は、施主によっても違うが、その当時10億の手持ち工事を持っていても、それがそのまま貸付の評価をされなかったのではないですか。

【橋本】倒産した会社の社長からよく聞いた話があります。明日が支払いなのに支店では前日までは融資について分かりましたと言われていた。次の日支店に行くと、本店の稟議が下りなかったので融資できないと、それでいきなり不渡りになったらしい。
 建築業の皆さんは、リーマンショックの時にそういった事態に対応できるような経験をされたと思います。今は自己資本比率も上げていらっしゃるし、良い時代に入ってきたもので、業界挙げて北陸新幹線開業を支援しながら、国も自然災害などに対してわれわれ建設業界がなければ国民の安全安心を守っていけないとの見方を示して、国民の意識もかなりそれに近づいてきたと感じます。公共工事は無駄な工事でないという認識があるからこそ、政府も景気対策資本として予算を配分しているのだと思います。
 一方で、われわれ業界はこれから先、働き方改革や担い手不足といった諸問題を抱えていくことになります。そんな時代を、われわれ生き残ってきた企業がどう乗り越えていくのかについて、これから協会としても、お互いに手を携えて皆で歩んでいかねばと思っています。

【岡】最後にこの50年で業界を取り巻く環境や金沢建設業協会のあり方、また個々の企業での設備、技術、組織などの面で変貌、そしていま北陸新幹線の開業で金沢の独り勝ちと言われていますが、皆さんは現状をどう見ていますか?
 後進へのアドバイスとしてお聞かせ下さい。

公共投資の現状と見通し

【北川】国全体の公共・民間を含めた建設投資のピークは平成4年の84兆円で、その後、大幅に減少し、平成22年には42兆円でこれが底になります。今年、平成30年の建設投資見込みは国交省の試算によると57兆円、これは対前年比2%ほど伸びていて、ピーク時の84兆円に対して68%になります。内訳は、23兆円が公共投資、民間が34兆円、比率にして40%:60%ということです。ピーク時から半減したものが約7割まで持ち直してきたと言えますが、公共投資は平成25年からここ6年ほどほぼ横ばいです。また、平成22年の底からの伸び率をみると、公共投資が28%増、民間は42%増加しているということは、建築が伸びてきていると言えますね。

【橋本】オリンピックの関連施設など、扱う物件が大きいこともあります。

【北川】公共工事が6年ほど伸びていないので、その分オリンピックなどいろいろな設備投資が活発になされて、ほとんどが建築の業績につながっていきました。

【橋本】国交省から公表されている57兆円という数字ですが、最近良く耳にする激甚災害を含む様々な自然災害に対する土木・建築工事のための資金は被災地である地方に特化されます。これは今話していた予算外の話です。
 自然災害に対してわれわれ業界そのものが、なくてはならない業界として生き残っていく意義と術をそこに見出せると私は思っています。今年の大阪や広島などの復興を考えたならば、何千億という金額になるはずです。その工事はもちろんスーパーゼネコンも含めますが、その地方の中の業者が受注していくことになります。われわれは災害復旧に向けての重責を担っていく業界でもあるということを誇りにもたねばならない。もちろん石川県にそんな災害が起きないに越したことはないですが。

【北川】今の国家予算が約100兆円の中で社会保障費ばかりが膨張しており、2019年10月に消費税が10%になったとしても、それが公共投資に回るということはまず考えにくい。やはり今後、公共投資は横ばいに推移するでしょうし、民間の設備投資も含む工事が今は伸びていますが、アメリカ経済が落ち込み、日本経済も落ちてくるとしたら、建築投資はかなり不安定な状況になると思います。

景気のピークは今なのか

小柳正彦

小柳 正彦
元協会副会長
(現顧問) 
日本海建設(株)会長

【平櫻】先日の北國銀行の決算発表で頭取から、もう今年度既に金融機関として不況対策を講じるという話を聞きました。一般的に景気のピークは2020年とされますが、われわれの業界は19年でピークを迎え終ってしまう。

【北川】来年までが手持ちが一番多いときというわけですか。

【平櫻】今がピークでこの先はかなり減っていくことを業界としてよく認識する必要があります。今までの好況がこのまま続くわけにはいかないでしょう。安倍首相が再選すれば、政策が急変することはないですが、消費税が10%になっても他にどんどん出ていくので、やはり無い袖は振れない。果たして今までと同額の公共事業費が維持できるかどうか、減らされる可能性は大いにあると思います。

【北川】国土強靭化基本法などはありますが、あくまで災害は偶発的なものなので、予備的に予算が増えることはまずあり得ません。

【平櫻】強靭化基本法の議員立法を出した二階さんが幹事長になったので期待はしているが、実際見ていると、お題目ばかりでほとんど動いていない。

【北川】道路にしても、県では輪島道路が出来てしまえば、もう新設の道路はなくなってしまいます。港湾もそうなのでは?

【小柳】金沢港は来年で開港50周年を迎えます。現時点ではほぼ整備は完了しています。

【橋本】これからは公共工事がどうなる以前に、下水道や道路のリニューアル、やりかえ工事がメインとなってくるはずで、それを期待する他ないのではないですか。例えば東京の首都高速などは50年、60年の歴史を数えているので、やりかえ工事の需要が出てくると思いますが、石川県については何とも言えません。

【明翫】われわれの業界、特に土木は公共投資に依存する体質で、自分たちでパイの大きさを決められません。経営の難しさはそこにあります。景気に左右される民間投資の増減に影響を受ける建築とはちがい、土木はどうしても公共投資の工事のパイに合わせて、各社の器を定めていかねばなりません。

業界として対応するとき

橋本和雄

橋本 和雄
協会会長 
兼六建設(株)社長

【橋本】従来の良かった業界を振り返り、もう一度原点に戻る時が来ているのだと思います。地元の企業同士が、今後どう生き延びていくか、改めて考えることが必要です。簡単ではないが、談合と言うのではなく、互いに地域性も勘案しながら業界活動を通じて意見交換をしていくことが必要です。先ほど話に出た最低制限の引き上げについても業界としてもっと運動していくことが望ましいです。

【奥田】いま土木はどうなのか? 90%そこそこの値段で出ると聞いたことがあります。

【北川】会計法を改正しない限り、あれは9割以上上げられないことになっています。今がようやく90%まで上がっただけです。

【伊井】土木はほとんど90%、最低制限価格ぎりぎりで落札しています。われわれの業界、特に土木が生きていくためには、現行の最低制限価格を少なくとも95%前後まで引き上げるよう働きかけることが必要だと思います。これは決して金沢建設業協会だけに限ったことではなく、全建協挙げて各官庁に提言・陳情していかねばならないことだと思います。今のままでは皆ジリ貧になり、業界全体が疲弊してしまいます。

【小柳】しかしわれわれの上位団体である、全国建設業協会はスーパーゼネコンをはじめとする大きな企業ばかりで、最低制限価格の引き上げについてはあまり関心がないようです。

【橋本】全建協の皆さんは確かにそんなことをあまり意識していません。地方の零細、中小企業のことはあまり考えていないのです。

【小柳】最低制限価格を95%に引き上げるための陳情はされているのでしょうか?

【北川】毎年行っています。

【平櫻】しているが、会計法があるので話が通らないのです。

【橋本】まあ喜ばねばならないのは、現状90%まで引き上げられたということです。

【平櫻】以前は85%を切っていました。

【橋本】他を見れば、95%や97%というところもあるのが事実。その知恵を、皆さんで努力して絞り出すべきだと思います。

【北川】国はできないが、地方自治体は知事の判断で、92%でも93%でも引き上げることが可能で、新潟などは早かったです。

【橋本】これは個人個人でどれだけ言っていても進まない問題。協会一丸となって知恵を出し、行政に対して働き掛けていくべきです。県、金沢の地区協も同様に、行政に対して意見を述べることのできる環境にあります。これは事務局も含めて、非常に努力を重ねてきたおかげで、行政側もそういった耳を持ってくれるようになりました。

「限界工事量」の算出は可能か

【北川】今「限界工事量」という新しい言葉を耳にするようになりました。建設業者は最低どれくらい全体の公共工事がなければ生きていくことができないかという概念です。ある程度の公共工事を維持しなければ、冬場の除雪なども含めて災害対応業務にあたる建設業界を維持していけないという考え方が関心を集めています。どこが一体限界になるのか? 例えば金沢協会の約100社が生き残っていくためには、どれくらいの工事量が限界だと考えるべきか。これからはそういった概念から、われわれ業界の必要性と公共性を訴えかけていかねばならないと思います。

【小柳】私もその話はよく聞きましたが、現実にそんな線引きが可能ですか? 工事量を確保できることは良いことですが、われわれが受注できるのは競争入札によってでしょう?

【橋本】公共設備のリニューアルについての投資が今後どれくらい必要かという試算データをよく目にするようになりました。小さい自治体でも何百億という単位になり、金沢市では何千億規模、県では何兆円レベルになるはずで、全体としては莫大な金額になる。それらが限界工事量の中に試算として入り、更に国挙げて新しい工事を生み出す施策を打ち出していく、そこにわれわれが生き残っていく術もあるのではないかと期待はしています。

北陸新幹線開業の効果は限定的

【北川】今は新幹線効果もあり、たしかに建築の工事量は多いけれど、これから数年先はどうなるか先行きが見えません。

【橋本】新幹線効果と言ってもほとんど大手ゼネコンの仕事が増えたに過ぎません。われわれ建設業界のなかの建築業者にその効果の波及がどれだけあったかで言えば、一割にも満たないレベルです。

【平櫻】専門業者の単価が上がるという意味では、逆に悪影響もあります。

【北川】地元業者で言えば、建築業はこれ以上増えなくても、横ばいを続け、これ以上下がらないと言えますか?

【平櫻】横ばいならばいいけれど、下がるでしょう。少子化が進んで、どんどん箱ものは減っていくのですから。金沢にしても小学校は合併が進んでいるでしょう。逆に土木は、強靭化法によって道路や橋梁にしても必ずメンテナンスしていかねばならないようになれば、工事量は維持していけると思います。

【北川】どの程度で維持できるかがポイントですね。協会としてトータルの限界工事量を試算してみるのも興味深い。

【橋本】限界工事量というのは各企業によって違ってくるはずです。その企業が持つ人材や規模による相対的なものになるからです。

人手不足対策と生産性の向上

岡昌弘

岡 昌弘
協会副会長 
(株)岡組社長

【北川】売上が減れば、その時は社員を減らすしかないのですが…

【明翫】やはり企業は器をあわせていくしかありません。

【北川】もう一つ別な話として建築業の方にお聞きしたい。いま土木では、ICTやi-Construction、AIやIoTなど、生産性を向上させるための先端技術の導入が叫ばれているが、建築の場合は同じことが可能ですか。

【平櫻】それは無理。全部手作りでしょう? 同じパーツはひとつもない。国交省にも真剣に取り組んだが、結局機械化・データ化ができません。設計者も違うし、同じAという設計者でも建物によってまた違うし、それをデータ化すること自体が不可能です。

【北川】建築の場合は、今の働き方改革によって残業を減らし、生産性を上げるといったことは土木に比べて難しい状況にあるのですね。専門工事業者の団塊の世代が老齢化して、協会でも取り組んでいるキャリアアップなども含めて、建築のこれからは厳しいですか。

【平櫻】そう、冬の時代が来る。

【橋本】建築が冬の時代に入ってくることは近い将来間違いありません。しかしそんな中でも、総合建設業を目指す土木の皆さんもおいでるので、私もそれは楽しみにしています。互いに切磋琢磨しながらやっていかねばなりません。建築はやはり、ものづくりがキーワードであり、仕事を自分たちが手がけてつくっていくというスタイルが必要とされていくでしょう。みづほ工業さんは既に取り組んでいらっしゃると思います。例えば、設計士がいて施主がいて、そこから声がかかってくるのを待っているのではなく、会社自らが仕事を興して、立ち上げていくスタイル、そしてそれを進める部署が建築業には求められていくでしょう。

【岡】たいへん盛り上がった座談会となりました。皆様方には今後とも協会運営にご指導ご鞭撻を賜りますようお願いしたいと存じます。本日はありがとうございました。